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「君はアントニオ猪木なんだから」大ブーイングを浴びてきた棚橋弘至を支えたスタッフの一言【篁五郎】

写真:棚橋弘至選手のXより引用

 

◾️〝猪木問答〟での「プロレスをやります」発言の真意

 

 そして入寮。棚橋は肉体的にほぼ完成されていたためか、わずか半年でデビューを果たす。

 その棚橋に大きな影響を与えたのが武藤敬司である。棚橋は武藤の付き人として同じ時間を過ごしてきたが、2002年1月に武藤が全日本プロレスへ移籍をするタイミングで離れることになる。「お前も来い」という師匠の誘いを断り、棚橋は新日本プロレスのリングに残ったのだ。

 武藤が離脱を決意したのは、猪木の求める総合格闘技路線への反発からだった。当時新日本プロレスは、総合格闘技ブームに押されていた。オーナーのアントニオ猪木は、総合格闘技のエッセンスも入れろと、たびたび現場に介入する。

 棚橋は、そんな猪木へ怒りをむき出しにした。それは、プロレスファンの間で有名な猪木問答(※注1)にも現れた。棚橋は猪木に向かって「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」と力強く宣言したのだ。

  「猪木さんは『怒り』をプロレスのテーマにされている方、『何に怒ってるんだ?』と質問されたと思います。中西(学)さん、永田(裕志)さん、(鈴木)健三さんは答えても、猪木さんに切り返されてしまった。それでとっさに質問に答えるのをやめようと思ったんです。

  猪木さんの問いかけに僕は答えていません。ただ自分の意見をぶつけただけです。猪木さんは異種格闘技戦をやってきたから、総合格闘技を避けることができないのはわかっています。でも、新日本プロレスはプロレスの会社なので、ああ言ったんです」

  会社組織に例えれば、入社34年の若手社員が会社の創業者に意見するようなものである。とんでもなく凄いことなのは読者にもわかっていただけるだろう。ただ意外なことにその後、内部からの反発はなかったという。

  「仮に反発があったとしても、僕には鈍感力があるので気づいていませんでした。さらに僕はめちゃくちゃ頑固で、自分が正しいと思ったことはやり遂げてしまう。自分の発言に自信がありました。僕自身、闘魂三銃士(※注2)のプロレスを見てファンになったし、プロレスラーになろうと思いました。あの時見ていたようなプロレスをもう1回出きれば、ファンになる人が増えると確信していました」

 

※注1:猪木問答:2002年2月、札幌大会終了後に蝶野正洋が猪木を呼び出し、「このリングを俺に任せてほしい」と直訴。その猪木から「テメエは何に怒ってる?」と問いかけた一連のやり取り。

※注2:闘魂三銃士:1984年の同日に新日本プロレスへ入門した武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也(故人)の三人のこと。1990年代の新日本プロレス人気を支えたレスラーでもある。

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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